2010年9月2日

騎手には馬の経験が必要か?

カテゴリー: 気づき — arainorio @ 19:12

今朝(9月2日)の日経朝刊の「春秋」に、新監督のアルベルト・ダッケローニ氏にからめて、こんな文が乗っていた。

「じゃあ騎手になるためには馬である経験が必要かい?」。
プロのサッカー選手だったことがないイタリア人の名将アリゴ・サッキ氏はそう言ったそうだ。

思わず膝をうった。
カウンセリングを習い始めの頃、クライエントの悩みと同じ経験をしないと共感などできないと思っていた。

名騎手になるには馬の経験は必要ないし、名カウンセラーになるにはクライエントの悩みの経験は必要ない。
イタリア人はうまいことを言う。

2010年8月28日

ドラッカーの人間味

カテゴリー: 人材育成 — arainorio @ 10:20

新任管理者研修のプログラムを考えている。

この機会にドラッカー読み返してみようかと、以前読んだドラッカーを何冊か引っ張り出してきた。
その中に『Harvard Business Review』の2003年11月号があった。
すっかり忘れてしまっていたが、編集部がドラッカーにインタビューしている記事がある。
その中で、ドラッカーが「ドラッカー流自己分析法」として、自分の苦手分野について語っているところがある。

・とにかく私は他人と一緒に働くのがどうしても性に合わず、一匹狼として動くのが好きだった。
・私はコンサルタントだが、意思決定者には向いていない。何か決めても翌朝には気が変わっているというタイプの人間だからだ。
・私は、人に引導を渡せない性格だ。仕事ができないスタッフを解雇したりという決定を何度も先送りにしてしまう。

思わず笑みがこぼれた。
ドラッカーというと、雲の上の人のように感じていたが、何だか急に人間味を感じて、ぐっと身近に感じてきた。

2010年8月22日

久しぶりのコンサート

カテゴリー: 気づき — arainorio @ 21:34

本当に久しぶりにクラシックコンサートに行ってきた。

新日本フィルハーモニー交響楽団。
大友直人指揮によるベートーベンの交響曲第7番、ピアノ協奏曲第5番他。
横浜みなとみらいホール。

ホールは、コンサートホールには最適と言われるシューボックス型をベースに、舞台が見やすいアリーナ型の客席配置を取り入れた「囲み型 シューボックス形式」を採用しました。
舞台最前部から3階席最後部までわずか33.5mと、大ホールでありながら演奏者を間近に感じられる距離。
オープンステージの舞台前も階段状に下がる設計で、舞台と客席との一体感はこのホールの大きな特徴となっています。

座席はパイプオルガン階の一番前。
丁度、指揮者と対面する格好で、オーケストラが後ろから一望できる位置。目の下にはティンパニー奏者。
音響的にはステレオで聞いている位置とは逆になるが、オーケストラの動きを見るには最適の位置。
音楽はもちろんだが、普段は見ることのできない指揮者の動きとオーケストラの動きも堪能した。

コントラバスの活躍ぶり―ああ、あの音はコントラバスの音だったんだ。
ティンパニー奏者はあんなに沢山の撥を使い分けたいたとは。
ピアノ協奏曲のピアノがあんな風に舞台から片付けられるのか―ピアノを積んだ舞台の一部がエレベータのように奈落に落ちてゆく。

ステレオで皇帝を聞きながら書いているがやはりコンサートの音にはかなわない。

photo-lhall

2010年8月18日

パソコン復旧悪戦苦闘記

カテゴリー: 日記, 気づき — arainorio @ 10:37

先日突然、パソコンがダウンしてしまった。
ダウンというより、ウイルスのようなものが駐在してしまって、ソフトが立ち上がらなくなってしまったのだ。
起動し直しても直らない。

スタンドアロン時代のパソコンは少しは分かっていたが、ネットワーク時代のパソコンはほとんどお手上げ。最も年ということもあるが。

こんな状態になると以前はパニック状態に陥ってしまったが、今回は意外と冷静だった。

まず、メールが使えない状態で何をしなければいけないか―ブレスト風に雑記帳に書き出していった。

まずは、気になる人に連絡をしなければ。
携帯にアドレスがある人はいいが、携帯に登録していない人はどうする。
幸いエクスプローラーのマイドキュメントは見ることができる。
検索のファイルの中に「最近の電子メール」がある。
そこを開いてみると、最近送受信したメールのアドレスを読むことができる。
それを携帯のアドレスに入力した。
とりあえず知らせおかなければならない人がリストアップできたので、メールがダウンしたので、何かあれば携帯に連絡していただくようお願いした。

連絡をし終わってみると、ほっとしたのか、なんだか心が軽くなった。
軽くなったというより、情報過多から解放されたような安堵感。
インターネットが見られなくてもいい、心静かに本が読め、心静かに思索にふけることができる―そんな思いが心の底から湧いてきた。
自分が取り戻せたようなそんな感覚に包まれた。

でも、ブログのことなどもあり、このまま放っておくわけにもいかない。
結構パソコンに詳しい息子に助けを求めると―レジストリが書き換えられているようなので、あるいはセーフモードで立ち上げたらどうにかなるのでは、とのアドバイス。

ここから先は、自分でも初めての冒険。
電源を無理に切断し、再起動してみると、思った通りセーフモードでの起動のプロンプトが表示された。
それに従って起動してみたが、レジストリが書き換えられているので、やはり同じで、ソフトは立ち上がらない。
再度セーフモードでの起動をしてみると、「復元」の機能があることに気づいた。
まずは単純に復元を選択して立ち上げてみると―期待したが、やはりもとのとおり。失望。

人間の体とは違って、そのままにしておいても、自然には直らない。
気を取り直して、再度「復元」に挑戦。
よくよく見ると、復元時期を選べるらしいことに気づいた。
一番古い時期を選択して復元を試みたが、無情にも復元不可能との表示。
そこで、パソコンがダウンしたらしい時間よりも少し前に設定して復元してみた。
期待せずに立ち上がりを待っていると、やっと以前の状態に戻って立ち上がった。
恐る恐る息子宛にテストメールを送信してみると、何とか成功!
インストール済みのソフトも無事、勿論データも無事。

それにしても、ウイルスに感染する前に状態に戻せたことは、なんだかタイムトンネルを通って、過去に戻ったような不思議な感覚だ。
あのウイルスはどこへいったのだろう?
あの時間帯は一体何だったのだろう?
ウイルスの身になってみると一夜の夢だったのだろうか?

いずれとにかく、冷静に対処することで今回の危機は乗り切ることができた。
小さいながら自己効力感を感じた出来事だった。

※いつになく長文となり失礼しました。

姓名判断への一疑問

カテゴリー: — arainorio @ 09:55

姓名判断の主流は、字画で判断するものだ。

字書の源流の『説文解字』の配列は、太始化成の元である「一」に始まり、十干十二支など分化の極である「亥」に終わる―とされる。

現在の部首別漢字辞典の規範となった『康煕字典』の配列は、部首の配列も、部首の中の字の配列も全て画数順。
白川静『字書を作る』によると、字はその構造的な原理から離れ、その構造的な意味も捨てられ、ただ筆画くの形式によって分属配列されている。そこにあるのは、すでに文字ではなく文字の形である。意味を失っている記号である。


現在の主流の姓名判断の字画の数え方は、康煕字典によっている。
文字はそもそも文字成立当時の生活の仕方・思惟の仕方をそのまま反映しているものである。
その意味を失った単なる記号の画数をもとに、人の一生の盛衰を判断することに、本当に意味があるのだろうか。

白川静という今はなき大きな知性に触れて、そんなことを感じた。

易の成立年代―屯卦の字形から

カテゴリー: — arainorio @ 09:01

易に「屯」という卦がある。

屯は、音「張倫反」(ちゅん)で、難む(なやむ)の義―とされる。

彖伝では、剛爻と柔爻が始めて交わって震を生じ、また坎の難み生じて、坎険の中に震動しようとする卦。

さて、屯という字。

説文解字では、草木が始めて地上に芽を出し、伸びなやむさまに象る。
白川静の『字統』によると、「卜文・金文の字形は草木初生の象とはみえず、織物の縁飾(へりかざり)として、大きな結びをつけた形である」とある。
さらに続けて、「屯難の意は易、屯卦の義から出たもので、字の形義とは関係がない」とある。


説文解字は、後漢の許慎の作で紀元100年の成立とされる。
金文は、殷金文から西周金文、東周金文、秦漢金文まであり、それぞれ年代が異なる。

とすれば、屯卦の成立は、説文解字より前で、かつ金文後ということになるのだろうか。
少なくとも、周の文王、周公旦の作ではなさそうだ。
易の成立は意外と新しいのかも知れない。

2010年7月31日

三浦綾子『旧約聖書入門』を読んで

カテゴリー: フランクル — arainorio @ 20:17

ヴィクトール・エミール・フランクルに少しでも近づこうとして、とうとう旧約聖書までいきついてしまった。
思えば遠くまで来たものだ―の心境。

旧約聖書について何冊か解説書を読んでみたが、最後に読んだ三浦綾子『旧約聖書入門』光文社には引き込まれた。

三浦綾子はご存じのとおり『氷点』の著者で、敬虔なクリスチャン。
単なる旧約聖書の解説にとどまらず、自分の信仰と対比させながら分かりやすく説明している。
しかも高尚な信仰者としてではなく、自分の信仰の浅さを吐露しながらの説明なので、信仰を持たない私にも一字一句が共感できる。
旧約の字面だけからでは、あるいは誤解してしまうようなところも、丁寧に説明されている。

フランクルの思想の底を、あたかも通奏低音のように流れている旧約聖書(フランクルによれば、聖書)の心の一端を見せていただいた気がした。
そして、フランクルにまた一歩近づいた気もしている。

2010年7月27日

悪猫

カテゴリー: 日記 — arainorio @ 21:00

今朝、いつもの通勤路を歩いていて、たまには猫と出くわさないかな―と思ったら、向こうから、たまに出会う悪猫がこちらへ歩いてきた。
悪猫といっても性悪という意味ではない。
何となく顔が悪そうな猫だから悪猫といっている。

こちらが猫用の挨拶で、目をパチパチとまばたきすると、私の左側をすたすたとすれ違っていった。
すれ違いざま、小さな低い声で、ニャッ。
猫語で言えば「オウ」と言っているんだろうな。

こちらも何となく笑みがこぼれた。
ただ、それだけのこと。

2010年7月21日

医学的ストレス研究と心理学的ストレス研究との出会い

カテゴリー: メンタルヘルス — arainorio @ 20:37

最近脚光を浴びだした心理療法に「マインドフルネス認知療法」というのがある。
うつ病の再発防止に効果的とか。

マインドフルネスとは、意図的に今この瞬間に、価値判断をすることなく注意を向けること(マインドフルネス認知療法)。
要するに、ネガティブな思考パターンを芽の内に摘み取るということ。

今日帰りの電車の中で、杉晴夫『ストレスとはなんだろう』を読んでいて、あっと声をあげそうになった。

そもそも、大脳皮質と自律神経系とを結びつけている連絡路は、今のところ未知である。
ただ、神経連絡路があると仮定した方がストレス理論からは合理的だ。
精神的ストレスを絶えず思い煩っていると、大脳皮質と自律神経中枢を連絡する「眠った神経連絡路」が徐々に目覚めてゆき、両者をつなぐ太いパイプとなってしまう。

医学的・生理的ストレス研究と心理学的ストレス研究のつながりが見えた気がした。

2010年7月19日

右脚のヘルペスを奇貨として

カテゴリー: 日記 — arainorio @ 11:44

1週間前から、右脚太ももが痛む。
打撲かなんかだろうとたかをくくっていたら3日前から痛みがひどくなってきた。
激痛で、夜眠れない。
昨日は日曜日で病院は休みだったが、あまりにも痛いのと原因を知りたいのとで、急患で診てもらった。
専門外の医師の診断ではあるが、ヘルペスらしい。
道理で激痛。

昨夜も予想どおり右脚の激痛。
自分が痛みに包まれてしまわないように、右脚の激痛を、あたかも眺めているように感じ、耐えた。
痛みという感覚と、それから生じる苦しさという感情を混同してしまうと自分自身が苦しみに覆われてしまう。
右脚の激痛を奇貨として、痛みについて学んでみた。
・・・でも痛すぎる。

次ページへ »

HTML convert time: 0.472 sec. Powered by WordPress ME